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失うこと、それすなわち得ているということ

S

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

マタイによる福音書 10:39

 

O

マタイの10章にはイエス様が12人の弟子たちを選ばれ、彼らを遣わすことにした場面が書かれている。弟子たちは『天の御国が近づいた』ことを宣べ伝えるために送られようとしていた。イエス様は彼らを送る前に多くのことを教え、警告し、また励まされた。この時だけでなく、これらの言葉を弟子たちはイエス様が天に上げられた後、福音を伝える時にもきっと思い出したことだろう。そしてそれは2000年後に福音を宣べ伝えている僕達にとっても大切な指針となる言葉である。

この言葉がなかったら、弟子たちも、僕達も、多くのことを恐れ、心配し、また理解できないことを多く抱えながら生きていただろう。なぜなら、福音を宣べ伝えながら生きることは、簡単ではないことがあるからである。この世的には見返りがない。お金がない。他の人、また家族から拒絶される。心にも肉体にも痛みが伴う。そんなことがあるからだ。

しかしここにイエス様からの希望の言葉がある。

「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

イエス様のために生きる、イエス様と共に生きることは、たとえ人の目には命を失うような人生であっても、なんと幸いな人生なのだろう。イエス様は決して僕達を忘れないから。掴んだ手を離さないから。この地上での最後の瞬間、死を超えて、必ず僕達をみそばに引き寄せてくださるから。

 

A

世の中がいう幸せは、マタイの10章に書かれているようなものではないだろう。誰もが人から受け入れられたいし、お金があったらいいと思うだろうし、痛みや悩みがなかったらいいと思うだろうし、自分が中心で生きたいと心のどこかで思ったりするだろう。

でもどんなにその思いや願いの通りになったとしても、僕達は誰もがいつか、死の瞬間を迎える。その時には、この地上で自分のために得たもの全てを僕達は地に置いていく。どれほど持っていても、いなくても、地上で積み上げた富も名声も、僕達は何一つ持っていくことができない。きっと多くの人たちが、全てを持っているようで、本当に必要なものを持っていなかったと死の瞬間に気づくのではないだろうか?

この世の中の”成功者”と呼ばれるような人たちから見れば、僕は何も持っていないような者だ。僕は時々そんな自分を考えて不安や劣等感を思うことがある。けれど、今日このイエス様の言葉を読んで、イエス様に「安心して行きなさい。」と言われたのを感じた。

イエス様も人の目には命を失ったものだった。けれど、そこには死をも打ち破る力と、時間と空間を超え、朽ちることなど決してない命があった。僕がイエス様のために命を失う者として生きるということは、そのイエス様を知っている、信じているということであり、朽ちることのない命を与えられているということだ。

それでもなお、世の中的なものを心に願ってしまうことが僕にはある。その度に今日の御言葉を心に思い巡らそう。イエス様を信じて、イエス様と共に生きよう。安心して進もう。イエス様が僕のために命を捧げてくれたように、僕もイエス様のために命を捧げるものとなっていこう。

 

P

愛する天のお父さん、あなたの素晴らしい御名を賛美します。今日もあなたからの恵みが十分以上に与えられていることに感謝します。それにも関わらず、僕は時に何も持っていないかのように感じ、不安や劣等感を抱えることがあります。主よどうか僕の心を守ってください。イエス様のために生きることは、世の中的に見たら、命を失うことでしょう。けれど、あなたに与えられた永遠の命がたしかに与えられています。僕がこの世で命を終える時には、それしか持っていくことができません。だから僕の心を守ってくださり、あなたの言葉に教えられ、励まされながら、この地上で与えられた時間をあなたのために生きていくことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン

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