そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
マルコの福音書 2:27
ここは安息日にイエス様がパリサイ人に対していった言葉。これは、麦の穂を摘んだ弟子たちきっかけだったが、のちに、安息日に人を癒すことでもパリサイ人と論争になる。
イエス様がパリサイ人たちに伝えたかったこととして、核となるメッセージがここに入っていると思う。安息日含め、律法がなんのためにあるのか、と。
根本を覆す、むしろ、洗いざらいするために。でも、ただ世界を正すためとか偉そうな理由ではなく、罪人のために、人々の贖いのためにきたのだ。
ここに、イエス様の本当の自由と、自由を愛するために使う性質が表れていると思った。
詩篇90編には、人の命について、「朝花を咲かせても移ろい 夕べにはしおれて枯れている。」(90:6)といった。
私たちの人生は長く、まだまだ先があるように見えて、本当に一瞬で、短いものなんだと改めて教えられる。
その限られた人生を、命を、どのように使うのか。
イエス様のように、真実のように見える人間の作り上げた便宜上のものの中に生きるのではなく、イエス様が与えてくれた自由の中で、その自由を神を、人を愛するために使いたいと改めて思わされる。
自分の中で作り上げたルールはなかったかな?人の目を気にしたり、高慢さから来る、愛からではないルールや思いが多くある。
自分をそれで捌き、また周りの人にもそのようにさばいてしまう。
でも、イエス様は、そのような罪から自由なお方だったし、私たちをそこから自由にしてくださったのだ。
この自由の中に私自身も生きること、そして、その自由を愛すること、その自由をくださった方を伝えることに、この短い人生を使っていこう。
①人間は不自由に縛られてしまう罪がある
②すでに自由にされている
③自由を愛するために使う
天のお父さん、このリトリートを感謝します。パリサイ人が私の中にも住んでいると思います。
いつも、あなたと時間を過ごす中で、あなたの心に、思いに変えてください。
わたしがいろんなものに囚われず、あなたの自由にする愛をただ受け取ることを忘れないようにしてください。
あなたを愛するために自由にされていることを覚えて、歩みます。
愛してます。
In Jesus name Amen