Scripture
“あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”
ヨハネの黙示録 3章17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
Observation
ラオデキヤの教会に宛てた手紙
熱くもなく冷たくもない、なまぬるい教会の指導者たちに宛てられた手紙。
彼らは「自分は富んでいる」と思っている。
しかし彼らの本当の姿は、盲目、哀れ、そして「裸」
Application
ラオデキヤの教会に宛てられたメッセージを読むたびに、自分の信仰や心が問われる。
今、熱く燃えているのか?それともつめたいのか?
いやもしかしたら、自分もどっちつかずで「なまぬるい」のか?
なまぬるい姿は吐き出すほどであると言われている。
ここで出てくる「なまぬるさ」の大きな症状は、「自己満足」「驕り」だ。自分は富んでいる、豊かで決して乏しくない。その驕りである。
けれど、その姿こそ、「なまぬるい」
なぜなら、自分が本当は丸裸であることに何も気づいていないからだ。
僕らはどうしても自分の裸を見せたくなくて、ありのままを見せるのが恐くて、恥ずかしくて、いろんな洋服を着る。その一つが、高慢であり驕りという洋服。それは気づかないうちに着込んでしまい、頑なになっていく。
それが完全に、ボロボロに崩れ去る瞬間がある。
だけど、それが起こるまでは驕り高ぶってしまうのだ。
裸同然の自分の姿に大分、落ち込む。
こんな自分が、本当の自分なのかと。
愛が足りず、優しさに欠け、誠実に欠ける。
欠けだらけだ。
けれど、創世記を読み返すと人は初め、丸裸であった。
神の前では、丸裸でいていいのだと教えられる。
驕り高ぶる自分も裸同然の愚かな自分である。
神様の前で、変に着飾るのをやめてそのままでいたい。
Prayer
愛する天のお父さん
あなたの前で、丸裸です。でも、すぐ何か別のもので着飾ろうとします。それが、いつの間にか驕り高ぶりとなります。それこそ、実は丸裸な自分に気付けていない姿だと教えられます。謙遜に、いやでも、正直に、あなたの前に出て行けますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。