Topic:信仰、奇蹟
Scripture(聖書)
12そのうち、日も暮れ始めたので、十二人の弟子たちはイエスのところへ来て頼みました。「先生。この人たちを解散させてください。近くの村や農場に行って、食べ物と今夜の宿を見つけることができるようにしてやらなければ……。こんな寂しい所では、何もありませんから。」
13「いいえ。あなたがたで、みんなに食べ物をあげるのです。」イエスの答えに、弟子たちはあきれ顔で言いました。「手もとには、パンが五つと魚が二匹あるだけです。これだけ大ぜいの人が食べる物を買い出しに行けとおっしゃるのですか。」
14こう言うのも、むりはありません。男だけでも五千人はいたのですから。しかし、イエスは、「さあ、みんなを五十人ぐらいずつに分けて座らせなさい」と言われます。
15弟子たちは訳がわからないながらも、そのとおりにしました。(ルカ9:12〜15 リビングバイブル)
Observation(観察)
いわゆる「五千人の給食」。
イエスが行った奇蹟の中でも有名な奇蹟の1つ。
すべての福音書記者が記しているほど、忘れられない衝撃的な奇蹟だったに違いない。
状況は・・・
・日が暮れてきている。
・寂しい場所。(近所にお店はない)
・男だけで五千人。つまり女性と子供も含めるともっと大人数がいる。
・手元の食料はパンが5つ、魚が2匹。
弟子たちの提案は・・・解散させた方が良い。
しかし、イエスの提案は・・・いいえ。あなたがたで、みんなに食べ物をあげるのです。
Application(適用)
常識と信仰のせめぎ合いがある。
常識をわきまえることは大事なことである。
それは配慮を生み出し、不要な衝突も避けることが出来るだろう。
しかし、その一方で常識だけで生きていては奇蹟を体験できない。
むやみやたらに非常識に生きることは避けるべきであろう。
たた、つまずきと衝突を生み出すだけだからである。
しかし、イエスは信仰によって生きるように招いている。
それは常識を超える。
そして、その先に奇蹟が待っている。
イエスは単独で奇蹟を行うこともあるが、しばしば弟子たちを奇蹟に招く。
奇蹟に参加させてくれるのだ。
奇蹟を体験させてくれるのだ。
奇蹟を味あわせてくれるのだ。
ただ、弟子たちは信仰によって従ったわけではなさそうだ。
15弟子たちは訳がわからないながらも、そのとおりにしました。
訳がわからなくても、主の言葉に従った。
時には主の言葉の意味を理解できないこともあるだろう。
そもそも100%理解すること自体がおこがましいというか傲慢なのかもしれない。
全てを理解できなくても、主の言葉を聞いたなら、従うことが大事なのだ。
Prayer(祈り)
主よ。
御言葉を感謝します。
御言葉に従うことを改めてチャレンジしてくださって感謝します。
常識を超える主の言葉に従う時に奇蹟を体験する。
その恵みの世界に私たちを招いてくださり、奇蹟に参加させてくださることを感謝します。
主よ、御声に聴き従う者とならせてください。
救い主イエスの名前で祈ります。アーメン