S
さて、一行は送り出されてアンティオキアに下り、 教会の会衆を集めて手紙を手渡した。 人々はそれを読んで、その励ましのことばに喜んだ。 使徒の働き 15:30-31
So when they were sent off, they went down to Antioch, and having gathered the congregation together, they delivered the letter. And when they had read it, they rejoiced because of its encouragement. Acts 15:30-31
O
使徒の働きの15章には、AD49年頃に行われたエルサレム会議の様子や、そこで決められたことがアンテオケのクリスチャンたちに伝えられる様子が書かれている。このアンテオケの人々は、パウロの最初のミッショントリップで福音を受け取った異邦人クリスチャン達である。エルサレム会議が開かれる発端となったのは、彼らの元へユダヤ人達のクリスチャンたちがやってきて、救われるためには自分達と同様に割礼を受けなければいけない、と教えたからであった。
パウロやバルナバは彼らと激しい論争になり、その後そのことが吟味され、話し合われるためにエルサレムで会議が行われることになった。会議の後、すべての人は割礼の有無ではなく、ただ恵みによってのみ救われることが確認された。
この決定がなされると、パウロ、バルナバ、ユダ、およびシラスに手紙が託され、アンテオケに派遣されることになった。アンテオケのクリスチャン達はこの手紙と、パウロ達から大きな励ましを受け、喜びに満たされたのだった。
A
僕達クリスチャンは、恵みによってのみ救われる。もちろん、救われ、聖霊が注がれ、信仰によって歩んでいく時、僕達はイエスのように変えられていく。しかし、僕達はその歩みが、あたかも救いに至るための道かのように考えてはいけない。救いは、僕達の罪の贖うためにイエス様が十字架にかかって死んでくださり、3日目に蘇った、そのことを信じることによってのみ、僕達が受け取れる恵みなのだ。
初代教会で起こった問題。エルサレム会議があり、こうしてその結末が聖書に残されているにも関わらず、その後の時代の中でも、幾度も同じような問題を人々は抱えてきた。それは僕達の生きる21世紀でも、異端として、あたかも同じ神様を信じる共同体のように世界中に存在している。それどころか、キリスト教の教会でも、行いが救いに必要かのように考えられていることがある。例えば、よく聞くのは、洗礼を受けないとクリスチャンではない、である。
とにもかくにも、今日もどこかである人たちはイエスの恵みがあるにも関わらず、心に責めを感じ、自分の努力によって救いに至ろうとしている。
幸いにも、僕の周りには、パウロやバルナバのような励まし手、祈り手がいてくれた。そうでなかったら、僕はもしかしたらイエス様との歩みを諦めていたかもしれない。そう思うと、本当に感謝である。
僕自身もパウロやバルナバ、NH横浜やハワイ、オレゴンでお世話になった方々のように、誰かの人生に寄り添い、励まし、彼らが主の恵みと喜びの中で歩むことができるように仕えながら、残りの人生を生きていきたい。
2024年もあっという間で、残りはほぼ2ヶ月である。2024年の残り、そして2025年を、周りの人々に神様の恵みを届け、励まし力づけるために用いたい。
そのことのために、ビジョン、目標、そして具体的なタイムラインを祈って考える時間を11月に持とう。
P
愛する天のお父さん、あなたの御名を賛美します。完璧ではなく、それどころか欠陥だらけの僕が、今日という日まであなたたとともに生きてこれたのは、僕の周りに多くの励まし手、祈り手がいてくれたからです。彼らが僕をいつもあなたの愛と恵みの元へと導いてくれました。感謝します。
主よ、今どれほどの人々が、ほんとうのところ、あなたの恵みの中に生きているでしょうか?主よ、あなたに愛されてやまないのに、自分の不十分さや弱さの中で痛み悲しみ、あなたとの距離が遠いと感じている人たちがいるならば、僕の人生を彼らの元へと送ってください。パウロやバルナバ、僕の周りにいてくれた人々のように、僕も彼らの祈り手、励まし手としてもちいてください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン