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彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 ローマの信徒への手紙 1:28
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ローマ人への手紙はパウロがその晩年に書いた手紙である。ローマにあった教会は時が経つにつれ、ユダヤ人のクリスチャンと、ユダヤ人でないクリスチャンの間には、互いの考えの違いなどから、分裂があったようだ。その違いの中には、福音とはなんであるのか、という最も確かなものとされなければいけない事柄もあった。
パウロの書いたこの手紙を通して、ローマのクリスチャンたち、また僕達は、福音とはなんであるのかや、クリスチャンとして生きる中でしっかりと握りしめる必要がある大切なことを知ることができるだろう。
そんな第1章を読んでいて今日心に止まった箇所は、1:28である。この前後では、神様がその存在を自然界を通してでさえ伝えているのに、神様を認めずに生きる人々の存在について書かれている。
神様を認めようとしなかった人々。しかし興味深いことがある。それは、人が何かを信じないということは、別の何かを信じる、ということなのである。神様を信じない人々は、無価値なものを価値あるものとして信じ、そしてしてはならないことすらするようになったのだ。
それらがどういったものかをパウロは続く節に書いている。例えば、ねたみ、殺意、欺き、陰口、高慢、不誠実、そういった類である。
神様を信じている信じていないに関わらず、神様を自分の人生の主として認めなければ、僕達の思いは価値がないものを価値があるものとし、今あげたような思いや行動に生きてしまうのだ。
A
僕は確かに神様を信じている。けれどあるエリアにおいては、時に神様を主とすることを認めていないような時がある。旧約聖書に出てくる人々のように、自分の思い、自分のタイミング、自分の正しさによって前に進もうとしてしまう時がある。
人生には人間的な思いでは理解できないような事柄がある。不公平に感じたり、正しくないと感じることもある。けれどそのような状況において、もし神様を自分の主であると認めないのならば、僕の抱く価値観、描く考えは、無価値なものとなり、そしてするべきでないことをしようとする方向へと傾いていく。
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。 ローマの信徒への手紙 1:29-31
自分の心にねたみ、高慢があるだろうか?行動に陰口や不誠実さがあるだろうか?そのような時は、その領域において、果たして自分は神様を認めているだろうか?と問いかけるものでありたい。また、認めていないのなら、悔い改めて、神様をその領域に迎え、認めるものとなりたい。
変わるべきものは状況や他人や、ましては神様ではなく、自分であることが多いことを覚えていよう。
P
愛する神様、あなたの御名を賛美します。主よ、僕はあなたに知られ、そしてあなたを知るものです。その恵みに感謝します。しかしながら、時に僕は自分の人生のある瞬間、ある領域においては、あなたを神様であり、自分の主であることを認めないような時があります。そのような時に、僕の心は無価値なものへと傾き、心と行動はあるべきではない方向へと進んでいくでしょう。赦して下さい。主よ、あなたを神とし、主とすることを大切にしていくことができますように。そして福音にはその力があります。信じる者すべてに救いをもたらす神の力が、僕の元にも注がれ、働くことを心から感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン