Scripture
「その声を聞きつけて、イエスは立ち止まり、「あの男を連れて来なさい」と言われました。そこで、人々はその盲人に、「運のいいやつだ。おい、イエス様がお呼びだぞ」と告げました。」
マルコの福音書 10:49 リビングバイブル訳
Observation
バルテマイの見えない目が見えるようになる。この奇蹟のはじまりは、バルテマイの叫び求めから。それを見た周りの人々は、最初、彼を黙らせようとした。しかし、イエス様は立ち止まってバルテマイを見てくださった。その声に耳を傾け、「わたしに何をして欲しいのか?」と聞いてくださった。
それを見た周りはこう言った。
「運のいいやつだ。おい、イエス様がお呼びだぞ」
Application
誰でも叫び求めるなら、イエス様はその声に立ち止まってくださる。周りは止めようとするかもしれない。バカにするかもしれない。かっこ悪いと言うかもしれない。だけど、叫び求める声はイエス様に届くのだ。
だけど、この世の中は叫ぶこと自体が何だかやばい奴と思われがち。
バルテマイも周りにバカにされた。
おい、呼んでるぞと小馬鹿にされた。
彼等はそれを運のいい奴と言った。
それは違う。
運がいいからイエス様は立ち止まったのではない。バルテマイが叫び求めたから立ち止まったのだ。周りの群衆も心から叫ぶなら、その声はイエス様に届く。必ず届く。天の父なる神が治めておられる世界において、それは「運」じゃない。あのバルテマイがイエス様なら必ず癒してくださると信仰を持って叫び求めたからだ。もうこの人しかいない。藁にもすがる思いで、彼はイエス様に叫び求めた。
今日、僕は群衆のように「運」と言ってしまうか?
それともバルテマイのように信仰によって叫び求め告白する者となるだろうか?
これは大きな違いである。
イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。バルテマイの信仰にイエス様はちゃんと応えてくださった。信仰の世界に生かされている者ととして、この世界に信仰を証する者となっていきたい。運じゃない。不可能などないイエス様が叫び求めに、祈りの応えてくださるから信仰に立ち続けることができるし、奇蹟は起こるのだ。
今日、イエス様に心からの叫びをする者でありたい。
Prayer
天のお父さん
何をやっているんだ、と言われようとも、運じゃないかと言われようと信仰の道を歩みます。イエス様に従います。今日、イエス様に心からの願い求めを叫ぶ者とならせてください。イエス様に不可能はないこと。イエス様しか僕にはいないことを告白します。どうぞ、癒し主であるイエス様が癒しを必要としている人たちを癒してください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。