Topic:祈り、Devotion
Scripture(聖書)
1ある時、イエスは外で祈っておられました。ちょうど祈り終えたところへ一人の弟子が来て、「主よ。バプテスマのヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と願いました。
2そこでイエスは、「このように祈りなさい」とお教えになりました。
(ルカ11:1-2 リビングバイブル)
Observation(観察)
弟子たちがイエス様にある事をリクエストした。
それは「祈り」。
背後にあったのは、バプテスマのヨハネが弟子たちにも祈りを教えていたこと。
その姿が影響していた。
そのリクエストに答えてイエス様が教えた祈りが「主の祈り」であった。
Application(適用)
多くの教会の礼拝等で「主の祈り」は祈られ続けてきた。
元々は弟子たちの「祈りを教えてほしい」というリクエストから。
果たして「主の祈り」が祈られる時、そのような思いがあるのだろうか?
ただ、お決まりの習慣のように、宗教的に、まるで呪文を唱えるかのように祈っていないだろうか?
バプテスマのヨハネは弟子たちに祈りを教えていた。
イエス様も弟子たちに祈りを教えられた。
祈りは教わり、学ぶ必要があるものなのだ。
昨年、礼拝のメッセージシリーズで祈りを取り扱った「DM Me」シリーズを行った。
毎回、マティアスがプロデュースしたAI特別賛美は斬新だった。
未だに歌詞とメロディーが脳内に残っている。
今年もどこかで「祈り」について学ぶメッセージシリーズを行えたら良い。
そして、祈りのもう一つの大切な側面は学ぶだけではなくて、実践するということ。
実際に、「神様・・・」と自ら呼びかけ、祈り始めてみることである。
韓国の教会のように「主よ〜!」と熱く祈るのも良い。
一人静まって祈るのも良い。
僕が好きな祈りは聴く祈り。
それは「Devotion」のことである。
しばしば、祈りは「神様との会話」と表現される。
ならば、自分だけが祈る、一方通行の祈りではなくて、神様の言葉にも耳を傾けなければならない。
祈りがなんとなく虚しく、無味に終わるのは、この部分を見落としてしまうからである。
「Devotionは最高の祈りの形である」とWayne先生から教わった。
今年も祈りを学び、祈りについて教え、一緒に祈っていきたい。
Prayer(祈り)
主よ。
爽やかな冬晴れの土曜日の朝を感謝します。
救われクリスチャンになったのが14歳。1988年の夏でした。
それは祈る生活の始まりでもありました。
見よう見まねで祈り始めた祈りの生活。
気づけば36年半。
幼稚で拙い祈りにも主が忍耐をもって聞いてくださってきたこと感謝します。
弟子たちが祈りを教わったように、祈りを教えてください。
また祈りを教え、祈りの恵みを分かち合うことができますように。
NHYが祈る教会でありますように。
一方通行の祈りに終わるのではなくて、主の御声を聴く祈りとさせてください。
イエス様の名前で祈ります。アーメン