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御言葉を知る

Scripture 「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主を求めよ。私たちの先祖が主のことばを守らず、すべてこの書に記されているとおりに行わなかったために、私たちの上に注がれた主の憤りが激しいからだ。」 2歴代誌 34:21   Observation  当時の王であったヨシヤは、主の目にかなった、神様を愛する王だった。彼は、主の宮をきよめ、修繕するために人とお金を集めて工事をすることにした。その工事中、なんと主の律法が記されている書物が見つかった。それがヨシヤ王の手に渡って読んだ時、彼は衣を引き裂いて、どれだけユダの人々が神様に背いてきたのかを知り、嘆き悲しんだ。そして、今残された自分達がどうすべきなのか、神様の思いを知るために預言者の元に人を遣わした。  まず、律法が記された書物が、王や民に知られていなかったことに関してびっくりだ。彼らは、そもそも神様が何を民に求めていて、どのような方であるのか無知だったのだ。そりゃ道から外れるわ!とも思うけど、無知であること、そもそも求めていなかったことに対しても神様の目には正しくなかった。口頭では、教えられていたと思う。これこれを守るようにと、耳にはしていたと思う。でも、彼らは直接神の言葉として触れていなかったのかもしれない。その無知は、罪へと自分の身を深く深く招いてしまう。御言葉に触れて、御言葉を知るってとっても大切なことであると改めてリマインドされた。 Application デボーションを大切にし、また誰かと一緒にする。 神様の御言葉に触れることは、神様のきよさ、正しさを知り、自分の罪を認め、イエス様の贖いに目を向けさせられる。自分自身もデボーションをする中で初めて自分の罪深さを知った。と同時にイエス様の深い愛を体験した。この聖書の言葉を体験することは、神様を知り、体験し、神様の愛をさらに知ることと繋がっている。 聖書の言葉を知らなければ、さらに罪へと進み続けて、理由もわからず自らを苦しめ、その救済措置であるイエス様の救いも知らずに生きていくことになる。教会に来ていて、聖書の言葉を耳にするのももちろん大切だけど、ヨシヤが治めていた時のイスラエルのように、神の言葉に直接触れ、向き合うことはとっても大切なことだ。 だから、もちろん自分もデボーションをして自分自身をメンテナンスするけど、まだ直接聖書に触れ、向き合っていない人と一緒にデボーションをして、神様の御言葉に一緒に向き合い、神様のことをもっと知ることを励まそう。私の言葉で励ますことが時には必要。でも、御言葉に勝るものはない!実穂も一緒にデボーションしよう!って言ってたな〜!私もデボーションを一緒にして、彼らと一緒に成長することを選ぼう。   Prayer…