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「仲良く暮らすこと」

Topic:愛(一致)   Scripture(聖書) 1兄弟たちがいっしょに仲良く暮らすことは、なんと楽しく、なんとすばらしいことでしょう。 2仲良く暮らすことは、頭に注がれた香り高い油のように尊いことです。アロンに注がれた香油はひげに流れ落ち、服のえりにまでしたたりました。 3仲良く暮らすことは、ヘルモン山やイスラエルの山々に降りる露のように、新たな息吹を呼びさますのです。こうして、主はイスラエルに、永遠のいのちの祝福を与えると約束なさったのです。 (詩篇133:1-3 リビングバイブル)     Observation(観察) わずか3節の短い詩篇。 リビングバイブルでは1−3節、その全ての節に「仲良く暮らす」という言葉が入っている。   仲良く暮らすことは・・・   ①楽しい   ②素晴らしい   ③尊いこと   ④新たな息吹を呼びさます。       Application(適用) 新改訳2017では・・・   1見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。   「一つとなること」、「一致すること」の幸いを歌っている。 リビングバイブル訳のようにくだけた表現では「仲良く暮らすこと」、それは、実に素晴らしい。   箴言17:1はこう言っている。   ごちそうがあっても毎日争いごとがある家より、たった一切れのパンを仲良く食べる家のほうが幸せです。(箴言17:1 リビングバイブル)   「仲良く暮らすこと」の幸いは物質的な豊かさをはるかに凌駕するのだ。 しかし、その一方で、「仲良く暮らすこと」はなんと難しいことか。   実の血の繋がりのある家庭でも諍いがあるし、絶縁だってある。 殺人にまで発展することすらある。 神の家族と言われる教会でも仲違いすることもあるし、エスカレートして分裂することさえある。   罪の性質のゆえであるが、悲しい現実である。 10代の頃、通っていた教会では普段、「兄弟」「姉妹」と互いに呼び合う信仰の大先輩達が礼拝の直後に行われる会議において、互いをののしるかの如く、激しく言い争う姿を見せられた。 これが使徒信条で「聖なる公同の教会」と告白した教会の姿なのか!?と高校生ながら愕然としたことを覚えている。   なぜ愛である神を信じる信仰者たちがこうなってしまうのか!?と悲しく寂しい思いをした。   結局、人は自己中心である。 プライドがあり、自己正当化し、自分が正しい、自分が義であることをどこまでも主張するのである。 「仲良く暮らすこと」よりも己の義を主張することに価値を置きがちなのだ。 なんと愚かしいことだろう。しかし、残念ながら、それが自らも含めて人間の性質なのだ。   その一方で、先日ある方が「あなたに苦々しい思いを抱いていました。私をゆるしてください。」と告白してきた。 確かに、このところ疎遠になっていたが、こちらは何の苦々しさも持っていない。 それでも、関係の回復のために勇気をもって告白してくださったことを感謝し、互いに祈り合うことが出来た時間は尊いものであった。   伝道者の書3:8では・・・   愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。(伝道者の書3:8 新改訳2017)   願わくは愛する時が増えて、憎む時が減ってほしい。 ①自らの罪深さを認め、悔い改める。   ②愛を祈り求める。   ③仲良く暮らすことに価値を置く。   ④十字架の主を見上げる。(徹底的な献身とゆるし)     Prayer(祈り) 主よ。 仲良く暮らすことの素晴らしさを聖書は語ります。 しかし、人間の現実は実の家族であっても、あるいは信仰者であっても、愛とは真逆の争いや憎しみに支配されることがあります。 主よ、あわれみたまえ。 罪深い人間、そしてこの世界をあわれんでください。 真の豊かさに目が開かれ、互いに愛し合い、仲良く暮らすことに価値を置くことができますように。 ダビデが「なんという幸せ!」と歌った、その幸いを味わうことができますように。 僕の家庭が、教会が、この世界がキリストの愛に満たされますように。 救い主イエスの名前で祈ります。アーメン