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神様の選びと、神様への信頼

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ヨシュアが割礼を施したのは、神がその代わりにお立てになった彼らの息子たちであって、途中で割礼を受ける折がなく、無割礼だったからである。 ヨシュア記 5:7

 

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神様がイスラエルの人々に約束された場所、カナン。前の4章でイスラエルの人々は、その地に向かってヨルダン側を東側から西側へ渡った。神様が川の水を涸らし、彼らを渡らせたのだ。ヨルダン側の西側の王たちはそのことを聞いて、心が挫けた。そしてイスラエルの人々に立ち向かおうとする者は誰もいなかった。彼らが攻め入れば必ず勝利ができる時。しかし神様はヨシュアにすぐ攻め上るようにと言わなかった。まず、人々に割礼を施すように言われたのだ。割礼を施せば、その傷が癒えるまでは戦いには行けない。それどころか、もしこのことが敵に知られ、攻め入られてしまえば大変なことになる。しかしこのタイミングで割礼を受けることが、イスラエルの人々にとって、とても重要なことであったのだ。

 

A

その理由としてまず違うことは、割礼、つまり行いの有無である。行いがなければ神様に選ばれることはない、というのは間違った理解である。これは特にイエス様の時代の人々や、そしてその後の時代の人々が陥った罠である。現代に生きる僕達も持ってしまう考えである。

しかし人は行いによって神様に選ばれるのではない。ヨシュア記5:7には「ヨシュアが割礼を施したのは、神がその代わりにお立てになった彼らの息子たち…」とある。つまり、神様に選ばれたのは、割礼を受ける前であり、行いによって選ばれたのではないのだ。

ではなぜ割礼を受けなければいけなかったのか?それは神様への信頼と献身である。約束の地の王たちの心が挫けているこの時というのは、攻め上るには絶好のタイミング!しかしもし彼らがこの時、割礼を受けることよりも、攻め上ることを選んでいたら、彼らの将来は神様に信頼して生きることよりも、自分たちの力や、目に見える良し悪しに頼るようになっていただろう。

今日の箇所は僕にリマインドしてくれている。僕が選ばれているのは、僕の行いによるのではない。神様の恵みによる選びなのだ。そして、僕の目に見えるものに頼るのではなく、神様に信頼することをまず選ぶことが大切、いや、欠かせないのだ。

物事が良く見える時も、悪く見える時も、僕が何ができても、できなくても、まず神様に信頼することを選び、神様の力によって歩むことを選んでいこう。

 

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愛する天のお父さん、あなたの御名を賛美します。ヨシュアたちの歩んだ軌跡を通して、大切なことを教えてくださり感謝します。僕が自分の行いによって、あなたからの選びを確信することも、疑うこともないように助けてください。

彼らのように、あなたに信頼することをまず選びながら、あなたの力によって、この地上での人生を歩んでいくことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン

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