S
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
ルカによる福音書 23:35
O
ルカの福音書の23章には、イエス様が十字架にかかられた時のことが書かれている。ある人はこの後イエス様がどうなるかにただ興味があり、ある人々は涙を流し悲しみの中にあった。そしてある人々はイエス様をあざ笑い、また挑戦的な言葉を投げかけた。
「もし神の子なら。もし神が送った救い主、メシアなら。神に選ばれた者なら。ユダヤ人の王なら。」
イエス様はルカの福音書の4章でも同じようなことをサタンに投げかけられた。
「もしお前が神の子なら…」
けれどイエス様は、ご自身を十字架にかけた宗教指導者や兵士たち、またサタンの声に応えることはなかった。イエス様は彼らの言うような者ではなかったのだろうか?イエスはどのような者だったのだろうか?
なんとイエス様を嘲笑い、罵倒し、十字架にかけた者たちが言った言葉は、全てイエス様であった。イエス様は神の子であり、メシアであり、選ばれた者であり、ユダヤ人の王であった。しかし彼らは信じられなかった。彼らの救い主像、ユダヤの王像は、この世的であり、彼らの国をいわゆる力尽くで治めるような者だったのだ。
A
今日この箇所から2つのことを考えさせられている。
①たとえ僕がイエス様がどのような方か知っていても、正しい答えを持っていたとしても、イエス様に間違った期待、願いを持つこと、疑いを持つことがあるということ。
②たとえ自分や他人が、僕のアイデンティティー(イエス様にある)を、正しく言ったとしても、間違った期待、願いを持つことがあるということ。
Who Jesus isも、Who I amも、正しく理解し、受け取っていても、間違えた考えを持ってしまうことがある。それは本の表紙や、タイトルを見て、内容を全く理解していないようなものだ。その内容を理解するためには実際に本を開いて、読み進めていく必要がある。
僕にとって、それは聖書の御言葉である。聖書、神の霊が注がれた言葉を通して、僕はイエス様がどのような方で、僕自身がどのようなものであるかを深く理解することができる。
毎日のディボーションを大切にしていこう。
また、御言葉を心に蓄える習慣を築いていこう。
神様との日々の歩みが、僕の考えを守り、助け、導いてくれる。
P
愛する神様、あなたの御名を賛美します。主よ、僕があなたに、自分自身に、正しい理解をしていても、深いところでは誤った理解をすることがある時、許してください。どうかあなたを教えてください。どうか、あなたにある僕を教えてください。聖書の御言葉を、僕の考え、心、beliefの土台としてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン