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心にある思いに気をつける

お前たちは、『我々は諸国民のように、また、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう』と言っているが、お前たちが心に思うそのようなことは決して実現しない。

エゼキエル書 20:32

 

O

エルサレムがバビロンによって倒される5年前のこと、イスラエルの長老たちの何人かがエゼキエルの元へやってきた。彼らは、主に尋ねるために、預言者であるエゼキエルの元へとやってきたようだ。しかし、エゼキエルを通して神様は彼らに答えないと言われた。それは彼らの心にあるものが、悔い改めて神様を主として生きたいという思いではなかったからだ。

彼らの心のうちにあったものは、自分たちも他の国々のようになりたいという思いであった。そしてエゼキエルに語る神様が、果たして自分たちの思いや願いに応えてくれるかどうかに関心があったのだ。

このような思いをイスラエルの人々が持つことは、この時に始まったことではなかった。神様はイスラエルの人々が繰り返してきた歴史を振りかえることでそのことを示している。

モーセを通してエジプトの圧政から救い出された人々もそうであった。その後、約束の地であるカナンにたどり着いた彼らの子供たちもそうであったのだ。人々は神様に聞きながらも、自分たちの思っていることの方が良いと感じられると、神様に背を向け、人が作った動かない木や石さえも拝んだのだった。

 

A

僕が神様に尋ね求める時、どのような思いを持っているだろうか?神様に従っていくために聞く者だろうか?神様に信頼して進もうとするだろうか?それとも、自分の願いや思いを神様が答えてくれるかどうかに関心があって聞くものだろうか?

願わくば前者でありたいが、僕の心の中には、人間的な価値観や見方が顔を出すことがある。そのような自己中心的な思いになる罪があることを認めながら、気づかされるたびに悔い改めるものでいたい。

ディボーションをする時、祈る時、神様が何をしなさいと言われているのかを尋ね求める心を持つものとなっていこう。神様の言われることは、自分の思いとは違う時があるだろう。自分の考えの方が良い考えだと感じてしまうこともあるだろう。それでも神様に従い歩んでいこう。

神様に従うことを選ぶ、それは縛られて生きることではない。それは神様が僕に用意された、僕が生きる道である。

 

P

愛する神様、あなたの素晴らしい御名を賛美します!今日聖書の御言葉を通して、心をあなたに開き、あなたに従うことの大切さを教えられました。自己中心な思いで、あなたに従うよりも自分や、世の中の声に心が引っ張られてしまうことがあります。赦してください。どうかあなたの声を聞き、あなたに従い、あなたに生かされるものとしてください。一見するとよく見えたり、祝福があるように見える世の中のものから心を守ってください。イエス様の御名によって祈ります。

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