Topic:神
Scripture(聖書)
6それゆえー神である主のことばーわたしは生きている。わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎むことがなかった。だから、血がおまえを追いかける。
11それゆえー神である主のことばーわたしは生きている。わたしは必ずおまえを罰する。おまえが憎しみから彼らに対してふるまったのと、同じほどの怒りとねがみをもって。わたしはおまえをさばくとき、わたしは彼らに対して自らを現す。
(エゼキエル35:6、11 新改訳2017)
Observation(観察)
「神がいようがかまうものか」(10節)と神を侮る者たちがいた。
それがセイル山の住民、つまりエドムに住む者たちである。
しかし、エゼキエル35章で繰り返し語られる言葉が「わたし(神)は生きている」。
それゆえ、エドムに対するさばきが語られる。
私たちが信じる神は生きている神である。
つまり、死んだ神ではない。
自ら動くこともできない、手も足も何も出ない神ではない。
Application(適用)
「わたし(神)は生きている」
私たちの目に神は残念ながら見えない。
しかし、神がおられることに対しては否定のしようがない。
僕は毎日のように海に行く。
昨日も海に行ったが、青空と大きな海。
右手には日本一の高さを誇る富士山が見えている。
左手には湘南のランドマークである江ノ島が見えている。
こういう自然界に目を向けると神がおられることは否定できない。
しかし、日々の生活の中で、特に忙しさの中に置かれると、私たちは神がおられることに意識を向けることが難しくなる。
まして、神が生きているという意識はどこかに飛んで行ってしまう。
昨日はビーチミニストリーで二人の女性サーファーが救われた。
数ヶ月前から始まったビーチミニストリーですでに5名が洗礼を受けた。
まさに、神が生きている証拠なのである。
こういう奇跡や現象を見ると私たちは神が生きていることを実感する。
しかし、四六時中こういうことが起こるわけではない。
もっと何気ない日常でも神が生きていることを実感すること。
たとえ、実感できなくても意識することが重要なのだ。
①生きている神を意識する
②生きている神を伝える
Prayer(祈り)
主よ。
海と山と空をつくられた偉大なる創造主の御名をほめたたえます。
昨日もあなたが生きておられる神であることを体験する1日でした。
でも、すぐに私たちはあなたを忘れて、自己中心に生きていきやすい者です。
主よ、あわれんでください。
そして、いつもあなたを意識し、あなたを畏れる者とならせてください。
また生きている神であるあなたを宣べ伝える者とならせてください。
生きている神、永遠の神であるイエス・キリストの名前でお祈りします。アーメン