Scripture
‘その日、神殿には、エルサレムに住むシメオンという人がいました。信仰のあつい正しい人で、聖霊に満たされ、イスラエルにメシヤ(救い主)の来るのを待ち望んでいました。 神が遣わされるその方を見るまでは絶対に死なない、と聖霊のお告げを受けていたのです。 その日彼は、聖霊に導かれて神殿に来て、マリヤとヨセフがイエスを主にささげるためにやって来るのに出会ったのです。 シメオンはイエスを抱き上げ、神を賛美しました。 ‘
ルカの福音書 2:25-28 リビングバイブル訳
Observation
「救い主の来るのを待ち望んでいた」
シメオンという人物はエルサレムから離れずにずっとメシヤ救い主がこられるのを待ち望んでいた。それはどれくらいの月日だったのだろうか。1日という事はないだろう。それはもう長い間待っていた事だろう。
しかし、彼はついに出会った。
待ち望んでいた救い主に。しかもその手に救い主を抱き上げたのだ。救い主のお生まれのニュースを聞いただけでなく、救い主に肌で触れたのだ。
Application
彼はイエス様を抱き上げて賛美した。
シメオンがどれほどまでに救い主を待ち望んでいたのかが伝わってくる。待ち望んでいた人がついにやってきた。それは誰にとっても喜びである。一方で、それを待っている最中というのはとても難しいシーズンである。なぜ、シメオンはこんなにも長く待ち望み続けられたのだろうか?
彼の信仰といえばそれでおしまいである。
だけど、信仰だけでは納得いかない部分なのだ。
シメオンはある日、
「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と聖霊によって告げられていたのだ。(ルカ2:26)
ああ、彼はこの神の約束を握っていたのだな。
待ち望むのは嬉しい時間もあれば、悲しく辛い時だってある。待てども待てども何も起きず、誰も来ず、神の約束を神の恵みを疑う自分がいるのだ。そして願い求めが叶っている人を見ると、比べては何が違うのか神様に問う。問い続けても何も答えは見出せず、それでも待ち続ける日々が続く。
約束されてきた救い主はやって来た。
シメオンはその約束の通りに死ぬまでに救い主に会うことができた。これは紛れもない真実である。待ち望んだ人生の中で、シメオンは出会えたのだ。
ならば、僕も信じよう。
待ち望み続けるなら必ず、希望があると。出会えると。
Prayer
愛する天のお父さん
あなたの約束信じます。あなたは必ず成すと言われたことを成されます。イエス様は来てくれました。今日、僕に信仰を与えてください。あなたのもたらす希望を見上げ続けることができますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。