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葉は自らを生かし、実は誰かを生かす

Topic
人生の目的、与える

御言葉

そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。

マルコによる福音書 11:13

観察
過越の季節である4月上旬、イエス様はいちじくの木をご覧になって、その木になにかありはしないかと近寄られた。いちじくの実がなる季節ではなかったため、実は見つからなかった。しかしいちじくは5、6月に実結ぶもの。なので芽があってもおかしくなかった季節。しかし、その木には葉のほかには何も見当たらなかった。

聖書の中でいちじくの木はイスラエルに例えられている。この話のすぐ後に、イエス様がエルサレムに行かれるシーンが出てくる。イエス様は宮に入られ、そこが祈りの家とは程遠い光景になっているのを目にされた。そしてまたこの話のすぐ後に、同じいちじくの木のそばを歩かれ流シーンが出てくる。そしてあのいちじくの木は、根本まで枯れていたのだった。

葉をいくらつけていても、実を結ばなければ意味がない。
宮がどれほどにぎわいを見せていても、そこで本来結ばれるべき実がなければ意味がない。

果たして僕の人生はどうだろうか?葉を生えさせていても、実はあるだろうか?また、実がなるシーズンでなくても、芽はあるだろうか?

適用
葉があることは悪いことではない。しかし実を結ぶために植えられた木に葉しかなくて、実を結ばない物となっているのなら、どうだろう?葉があり、みた感じがよくても、それは神様に造られた本来の姿、神様が願われている姿とは言えないのである。

祈りの家である宮を強盗の巣のようにしていた人々は、あこぎな商売によって彼らの生活は豊かであっただろう。しかし実はなかった。芽もなかった。

僕という聖霊の宮も、本来あるべき姿は自分の生活の豊かさや幸せによって
測られるべきではない。

葉は自分を生かす物である。しかし実は誰かを生かすためのものである。
今日も生かされているのは、実を結ぶため。僕の人生が神様に用いられて、誰かの人生にいのちが届けられるため。そのことを今日もう一度覚え、そして実を結ぶために何をすべきか祈り求めていこう。

祈り
愛する天のお父さん、あなたの御名を賛美します!
今日もあなたが僕を愛し、赦してくださることをありがとう!
僕の人生に必要な全てをあなたが備えてくださっていること感謝します。けれどどうか僕が自分を生かす葉ばかり増やして人生を終えることのないように教え導いてください。実を結ぶことができますように。僕の人生を、いのちを与える木としてあなたが用いて下さい。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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